Beethoven 1801年〜1805年のピアノソナタ2022.7.1更新

演奏して気が付いた点をメモしてあります。「演奏上の問題点」については演奏をしながら少しずつ書き足していく予定です。
ピアノ・ソナタ第12番 変イ長調Op.26 (1800-01年作曲)

以前のソナタにはない構想を持っている作品。Op.53、Op.57にみられるような、ベートーヴェンが思い描くソナタへ向けてのさまざまな試みがこの曲以後に見られるようになることが重要である。 モーツァルトの「ソナタK.331」を発展させた構想と考えられる。「変奏曲〜舞曲〜行進曲」という楽章配置。最終楽章が無窮動風なのは新しい試み。

第1楽章は主題と5つの変奏曲である。
★ 演奏上の問題点: 古典派時代の変奏曲は基本的にはテーマと同じテンポで演奏されるが、バロック時代の変奏曲はかなり自由にテンポを設定する曲も多くみられることもあり(ヘンデル「シャコンヌ ト長調」/バッハ「ゴールドベルク変奏曲」など)、「必ず一定のテンポでなければならない」と言えるのかどうか。チェルニーはテーマを♪=76、第2・第4変奏を♪=92くらいでと書いている。Andanteは古典派時代では緩徐楽章に多く用いられた速度表示である。モーツァルトの交響曲では緩徐楽章は Andante が基本だし、ベートーヴェンの交響曲だと第1番(Andante cantabile con moto)、第5番(Andante con moto)、第6番(Andante molto mosso)などの例がある。アンダンテはロマン派時代とは概念が異なるという指摘もあり(東川清一・平野昭編著『音楽キーワード事典』では「アンダンテは,現在の用法では遅い部類に属するテンポ表示の一つです。しかし,音楽用語として登場してきた当初には全くテンポ指示の意味はありませんでした」「いずれにせよアンダンテがテンポ表示として明確な意味で使われるようになったのは,かなり遅くなってからのようです」「モーツァルトやハイドンにとってアンダンテは,穏やかでリラックスしたテンポであったと思われます。つまり『速すぎず』『遅すぎず』の中庸のテンポであったようです」とある)。このあたりを基本としてこの時代の Andante のテンポを考えることは必要かと思われる。
第2楽章はスケルツォ楽章。主題は、変ホ長調に聞こえるが実は変イ長調の属和音からの開始という巧妙なものである。こういう調性感覚は「チェロ・ソナタ第2番(1796年作)」にも見られるもので、いかにもベートーヴェンらしい。
第3楽章は「ある英雄の死を悼む葬送行進曲」。中間部では低音のトレモロと和音の強奏で太鼓とラッパの響きが模倣されるが、こういう部分は「エグモントの音楽」などのベートーヴェンの劇的作品と似ている感じがする。
第4楽章は無窮動的音楽で、Op.31-2(テンペスト)、Op.57(熱情)などと関連があるように思う。
★ 演奏上の問題点: このソナタは「ペダル記号」がベートーヴェンのピアノ作品中で(たぶん)初めて用いられたものだが、その箇所は第1・3・4楽章最後部分と、第3楽章でのトレモロ部分である。スケルツォには指示がないが、例えばトリオ部分の書法を見ると、指使いによるレガートが意図されていることが分かる。演奏者はこういうことも認識しておくべきであろう。

ピアノ・ソナタ第13番 変ホ長調<幻想曲風ソナタ>Op.27-1 (1800-01年作曲)

「作品27」の二曲は、「楽章」の概念を大きく変えたソナタと言える。「Op.27-1」は楽章間がすべてアタッカ(続けて演奏せよ)の指示で連結され、フィナーレに導かれる。「幻想曲風ソナタ」という名称にみられるような即興的な作風と、この時期に追求していた「ソナタの新しい形」の両面を追及した作品と言えるだろう。

第1楽章 アンダンテ 変ホ長調、2/2拍子、〜アレグロ ハ長調、6/8拍子〜テンポ・プリモ 変ホ長調、2/2拍子。第1楽章がAndanteであるのは「Op.26」と同じであることに注目したい。おそらく第1楽章の概念を変えようとしていたではないだろうか。楽章の全体は三部形式となっている。主部は右手に現れる和声的で簡素な主題を左手が装飾してゆく。穏やかな情緒が支配するこの部分は、突然のアレグロで中断されるが、またすぐに主題が再現し、もとの穏やかな世界に戻る。基本的には柔かさ、やさしさが中心の楽章といえるだろう。
★ 演奏上の問題点: この楽章の繰り返し記号は、必ず守らないと音楽的な意味がなくなる例のように思われる。2分の2拍子であることは続くOp.27-2と同様で、奏者のテンポ感を問われるだろう。
第2楽章 アレグロ・モルト・エ・ヴィヴァーチェ ハ短調、3/4拍子、三部形式。主部は両手によるレガートの分散和音、中間部はスタカートで対照的な楽想となる。スケルツォ的な性格の楽章。
★ 演奏上の問題点: 再現部右手が「sempre ligato」、左手が「sempre staccato」となっている。主部と明らかに違った弾き方を指示されていることは注意すべきと思われる。
第3楽章 アダージョ・コン・エスプレッシーヴォ 変イ長調、3/4拍子〜アレグロ・ヴィヴァーチェ 変ホ長調、2/4拍子、自由なロンド・ソナタ形式。ベートーヴェンの音楽ではアダージョに名作が多いが、この楽章の前半部分は、その中でも特にすぐれたものと言われ、深々とした情感がすばらしい。続くフィナーレは、「第12番」の精神を受け継いだ運動性を特徴としたものと言え、彼の交響曲作品のオーケストレーションを彷彿とさせるかのような部分もある。最後にアダージョが回想され、プレストで全曲を華やかに締めくくる。
★ 演奏上の問題点: アレグロの主題にトリルがあるが、はっきりと後打音が表記されている。これを守らないといけないが、全体のテンポを速くとると演奏が難しくなる。春秋社版(児島新校訂)ではひとつの有効な奏法が示されていると思う。

ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調<幻想曲風ソナタ>Op.27-2  (1801年作曲)


第1楽章 アダージョ・ソステヌート 「全曲を通して非常に柔らかく、そしてペダルを用いて演奏すること」と指示されている。冒頭にこう記されたあと、さらに“senza sordino" とあるのは、「ダンパー(消音器)なしで」ということなので、ペダルに関する指示が念入りであることが分かる。不完全なソナタ形式とも三部形式とも言え、通常の第1楽章の作り方ではないが、ソナタの第1楽章を省略したと考えれば納得できる。楽章ごとにテンポを上げていくためのテンポ設定と考えられる。
第2楽章 アレグレット 第1楽章から続けて演奏するよう指示されている。「第12番」のスケルツォと同じく、属調から開始されるのが特徴。トリオで、シューマン風のシンコペーションが登場することにも注目しておきたい。メヌエットともスケルツォとも表示されない形式は、ピアノ・ソナタ第7番の第3楽章を思わせる。
第3楽章 プレスト・アジタート ベートーヴェン特有の「嵐」のイメージが最終楽章に表れた例は、「第1番」以来と言える。分散和音が上昇する劇的な第1主題、旋律的な第2主題、そして和音のスタカートで奏される主題から構成されるが、ここに見られる「第3主題」とも言うべき要素は、のちの「熱情ソナタ」に受け継がれることとなるのである。
★ 演奏上の問題点: 第22小節に見られる複前打音の奏法について「倚音に付けられるものだから上拍的に奏されねばならない」という説があるが、その前にある付点音符の長さを若干短めにする演奏が多いようだ。自然に聞こえるのがバックハウス、グルダ、バレンボイムなど、拍に合わせて弾いているのはアラウ、ホロヴィッツなど。第61小節にある複前打音は拍の前に出して弾く人と拍に合わせて弾く人、いろいろである。

ピアノ・ソナタ第15番 ニ長調Op.28 (1801年作曲)

「第12番」から実験的な試みを次々と行ってきたベートーヴェンであるが、このソナタは初期時代の古典的作風に戻ってきた感があり、穏やかな情緒をもっている。しばしば「田園」という標題で呼ばれるが作曲者によるものではなく、出版の際にハンブルクの出版社クランツによって付けられたものらしい。

第1楽章 アレグロ ニ長調 3/4拍子 ソナタ形式。冒頭のD音が保続音となってこの楽章の気分を形作る。楽想は全体的に穏やかで、親しみやすい。
第2楽章 アンダンテ ニ短調 2/4拍子 3部形式。ベートーヴェンはこの楽章を非常に気に入っていて、チェルニーは作曲者自身が何回も演奏するところを聞いたと言っている。
★ 演奏上の問題点:
1.主題は和音でレガートの指示があるが、伴奏はスタッカート。ペダルを使うことは可能だがスタッカートの4番目の音が伸びてしまう演奏をよく聞く。ペダルを32分音符単位でうまく使えば何とかレガートとスタカートは両立できるし、他にも方法はある。
2.第49小節の右手、ヘンレ版ではソプラノとアルトの音価が異なっているがベーレンライター版だとアルトが8分音符の和音で表記されている。後者の方が演奏していて納得できるように思う。
3.第98小節、右手にあるターンで「♯」と書いてあるのを以前は「D-Cis-H-Cis」と演奏していたが、ベーレンライター版ではターン記号の下に#のみをつけてある。注釈を読むとこれはB(B-flat)
を打ち消す意味だそうだ。テュルクの理論書にあるらしい。勉強不足であった!
第3楽章 スケルツォ アレグロ・ヴィヴァーチェ ニ長調 3/4拍子 3部形式。軽妙でユーモラスなスケルツォ。トリオはロ短調になり、同じ動機を何回も繰り返すもの。
第4楽章 ロンド アレグロ・マ・ノン・トロッポ ニ長調 6/8拍子 ロンド形式。再びD音の保続音の上に、のどかな旋律が歌われる。「田園的」という表現は最適な性格だが、第1楽章と比べると運動性が増している。コーダでPiù presto とテンポを速める方法は Op.31-1, Op.53, Op,57などの作品でさらに効果的な手法となって現れる。

ピアノ・ソナタ第16番 ト長調 Op.31-1  (1802年作曲)

第1楽章 アレグロ ト長調 2/4拍子 ソナタ形式。 第1主題のリズムが面白い。伴奏の単純さとメロディーのシンコペーションが対照的である。そしてすぐに長2度下のへ長調で繰り返されるのも全く変わっている。第2主題は3度上のロ長調で登場するもので、これは「ヴァルトシュタイン」ソナタの第1楽章を先取りしたと言えよう。その後も長調と短調が交錯する独特の進行。展開部は短めだが転調の面白さを見せ、コーダは主題が断片的に登場し、終りそうでなかなか終らない。ユーモアに満ちた楽章と言える。
第2楽章 アダージョ・グラツィオーソ ハ長調 8分の9拍子 3部形式。 セレナード風で明るいアダージョ。主題はトリルで始まり、さまざまな装飾を凝らして変奏される。オペラ風の楽想とも言え、中間部では弦楽四重奏のような世界も登場する。
第3楽章 ロンド アレグレット ト長調 2/2拍子 ロンド形式。ロンド形式は「A-B-A-C-A」が基本であるが、この楽章は「A」が楽曲の大部分を支配するものである。「B」部分は3連符の動きのみが特徴的で(「第6番」の第1楽章と相似)、「C」は「A」を短調にして展開したものであり、それゆえ特徴のないロンドと評されることが多い。最大の特徴はコーダで、終わり方を迷っているかのようなテンポの交替のあと、プレストで曲を締めくくるもの。

ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 Op.31-2  (1802年作曲)

「第16番」で古典派の類型から離れたベートーヴェンが、このソナタで打ち出したのは「第1楽章を明確な構成にしない」ということだと思われる。ドミナントで開始される不安定な和音。3種類に変化するテンポ。突然fが登場する展開部。再現部のペダル用法とレチタティーヴォ。そのすべてが第1楽章を謎めいたものにしているのだが、そこから第2楽章の安定感、第3楽章の見事な音の流れへと進む構想が、このソナタの魅力なのである。

第1楽章 ラルゴ〜アレグロ 2/2拍子、ニ短調、ソナタ形式。
★ 演奏上の問題点: 再現部のペダルについてはいろいろな方法論が今までに語られてきた。トーヴィ版に示されている方法など興味深いが、ハーフペダルを適宜踏み変えるなどが現実的な解決法のように思える。
第2楽章 アダージョ 変ロ長調、3/4拍子、ソナタ形式。第1楽章と同じような響きのアルペジオで開始される。低音域と高音域の二つの声部が対話するように進み、途中に現れる伴奏は遠くで聞こえる雷鳴のような感じだ。
★ 演奏上の問題点: 第10小節にあるターン記号は、児島新『ベートーヴェン研究』によれば「二番目の主音の明記」というベートーヴェンの書き方ということだそうだが(つまりターンは1拍目前半で奏される)、1拍め裏で演奏するビルソンのような演奏家もいる(余談であるがビルソン他のピリオド楽器演奏家によるベートーヴェン「ピアノソナタ全集」はかなり変わっており、初期の作品で楽譜にない音を加えたり変奏をしたりという独特の解釈である。賛否両論ありそうだ)
第3楽章 アレグレット ニ短調 3/8拍子、ソナタ形式。今までの楽章に見られた停滞するような気分はなくなり、きわめて美しい音の奔流となる。展開部とコーダが非常に長く、充実したベートーヴェンの創作意欲を感じさせる。
★ 演奏上の問題点: テーマの伴奏形でバスのA音をタイで延ばす書き方に注意したい。第9小節からの書き方と区別してることは明らかだと思われる。

ピアノ・ソナタ第18番 変ホ長調 Op.31-3  (1802年作曲)

第1楽章 アレグロ 変ホ長調 3/4拍子、ソナタ形式。「テンペスト」ではドミナント(Ⅴ度)開始という意外性が示されたが、この曲はサブドミナント(Ⅱ度)和音での開始。その7の和音の第1展開形がいきなり冒頭に登場するのは極めて珍しい。そしてすぐリタルダンドとなる。ア・テンポになるとまた冒頭の動機からリタルダンド。二回目以降はテンポは安定し、ハイドン風の明るい音楽となる。スタッカートやトリルが多用され、ウィーンの典雅な情緒を感じさせる。
★ 演奏上の問題点: Allegroのテンポ設定。第53小節の連符から考える方法が良いと思う。ここは「左手の伴奏をなくしているから、この部分全体を自由なテンポで弾いたんじゃないかな」という考え方(『宇野功芳編集長の本』p.68)もあるがほぼイン・テンポで弾いている演奏家もいる(イーヴ・ナット)。第22小節のトリルも全体を速く弾いてしまうと5連符くらいでしか弾けないが7連符の方が味わいが出るように思う。
第2楽章 スケルツォ:アレグレット・ヴィヴァーチェ 変イ長調 2/4拍子、ソナタ形式。2拍子のスケルツォというのもあまり例がない。きわめて上機嫌で、スタッカートの伴奏形と32分音符で細かく刻むリズムが特徴である。
★ 演奏上の問題点: この楽章も速く弾きすぎると32分音符のリズムが正確に弾けないので、そこを基準にテンポを設定したい。
第3楽章 メヌエット:モデラート・エ・グラツィオーソ 変ホ長調 3/4拍子、三部形式。美しい旋律のメヌエットで、サン=サーンスはこの楽章のトリオをもとに2台のピアノのための変奏曲を書いた。
第4楽章 アレグロ・コン・フオーコ 変ホ長調 6/8拍子、三部形式。
「狩」の音楽とも呼ばれる、活発で技巧的なフィナーレである。リズムはタランテラと解釈する人が多いようだ。「テンペスト」から「熱情」ソナタまでに至るフィナーレのエネルギーはここにも明らかにある。

ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調 作品53  (1803-04年作曲)

べートーヴェンの最も充実していた時期を代表する名作。この作品を献呈されたヴァルトシュタイン伯爵(Ferdinando Waldstein,1762-1823)は、ウィーンの名門貴族出身であったが、ヴュルテンベルクでの見習い期間を経てドイツ騎士団に入団するために1788年にボンにやってきた。当時ブロイニング家は多くの文化人や貴族のサロンとなっており、べートーヴェン長女のエレオノーレと三男のロレンツにピアノを教えていた。ワルトシュタイン伯爵はベートーヴェンの優れた才能を見抜き、当時ボンにはまだ数台しかなかったアウグスブルクのシュタイン製のピアノを贈った。21歳の若き作曲家が故郷ボンからウィーンに移る時、ヴァルトシュタイン伯爵が「モーツァルトの精神をハイドンの手から受け取りたまえ」と記念帳に書いてその未来を祝福し、その後も経済的に、そして何より精神的にベートーヴェンを支えたことは大きい。このソナタを書いた1803〜4年頃、べートーヴェンはパリのピアノ製作者セバスチャン・エラールから最新のピアノを贈られた。この時にべートーヴェンの胸中には、かつて勉学に励んだ時の思い出がよみがえったのではないだろうか。ヴァルトシュタイン伯爵への感謝の気持ちがこの偉大なソナタを書かる動機になっていると考えられるが、伯爵は1795年にボンを去って1805年までイギリス海軍に奉職、その後もパリをはじめヨーロッパ各地に赴任したのち1809年5月にウィーンに戻った。つまりこのソナタが出版された時に伯爵はウィーンにはいなかったらしい(以上、平野昭『作曲家◎人と作品シリーズ ベートーヴェン』より)

第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ ハ長調、 4/4拍子、ソナタ形式。弦楽四重奏曲第7番(「ラズモフスキー第1番」)との関連がしばしば指摘される力強い第1主題。低音域に和音で主題が示されるのは当時としては全く新鮮であったことだろう。第2主題はホ長調でコラール風に示される。全体を通じて展開される見事な技巧、ピアニスティックな美感が素晴らしい。
第2楽章 イントロドゥツィオーネ: アダージョ・モルト、6/8拍子。当初は長大な緩徐楽章が置かれる予定であったが、それは「アンダンテ・ファヴォリ」として別に出版された。この楽章は「序奏」と記されているので、続く第3楽章の一部であるとの解釈も成り立つ。ここでは『べートーヴェン大事典(平野昭/土田英三郎/西原稔編著、東京書籍)』に従った。
第3楽章 ロンド アレグレット・モデラート ハ長調、2/4拍子、アレグレット・モデラート、ロンド形式。A主題はほとんど主和音と属和音の交替の中に、ハ短調のかげりが色彩を添えるものである。華やかな経過句の後、イ短調のB主題が現れるがこの主題は再登場しない。C主題はハ短調で、両手のユニゾンで現れたのちに3連符のパッセージを用いて展開される。コーダはプレスティッシモに速度を上げ、アルペジオ、トリル、グリッサンド(今日のピアノでは演奏は難しい)などの技巧を駆使したのち、輝かしい終結となる。
★ 演奏上の問題点: 第465小節のオクターヴについてはチェルニーも「Die folgende Stelle ist jene Art zu schleifen」と書いており、渡辺裕『西洋音楽 演奏史論序説(春秋社)』では「ここでベートーヴェン自身がスラーをつけ、すべての音に1と5という指使いを振るという異例なやり方をとったのは、当時まだグリッサンドという用語が確立していなかったために、このような形でしかその指示を伝えることができなかったからである」と述べられている。当時のピアノは鍵盤が軽かったためにこの奏法が可能であった。「ピアノ協奏曲第1番」でも見られるが、こういうパッセージを曲に合わせたテンポで演奏するのは難しい(チャールズ・ローゼン『ピアノ・ノート』みすず書房)。 整調が上手くできているピアノのみでこのような弾き方は可能なので、演奏家は両手に分ける奏法も練習する必要がある。

ピアノ・ソナタ第22番 ヘ長調 作品54 (1804年作曲)

このソナタが作曲された1804年という年は、「英雄」交響曲やオペラ「フィデリオ」など、大作が次々と生み出されていった時期である。そんな時期に二つの楽章からなる一風変わったソナタが書かれた。この曲の存在については長いあいだ謎とされてきており、現在でも作曲の経緯はよくわかっていない。作曲当初から不評を買った作品であったが、内容面から客観的に考えると、ベートーヴェンはピアノ・ソナタにおいて一層の新しい境地を切り開こうとしていたのではないだろうか。巨大なコントラストを特徴とする第1楽章、コントラストをなくして無窮動風に進行する第2楽章という構成で、今までのソナタ形式あるいはソナタの概念とは違った性質の音楽となっている

第1楽章 イン・テンポ・ドゥン・メヌエット へ長調、3/4拍子。この楽章の形式は「二つのトリオ(あるいはクープレ)を持つメヌエット」「フランス式ロンド(ロンドと変奏曲を組み合わせたもの)」など、さまざまな解釈がなされている。注目すべきはリヒャルト・ローゼンベルクの「美女と野獣」説であるが、文学的解釈はここではやめておくとしよう。この楽章で特徴的なのは、二つの楽想のはなはだしいまでの対立、そしてAがだんだん長大なものになってゆくのに対してBがそれに反して縮小されてゆくことである。そして、この楽章のコーダでは有名な「交響曲第5番(運命)」の第2楽章との相似を誰しも感じることであろう。
第2楽章 アレグレット へ長調、2/4拍子。同じ調の作品としては「ピアノ・ソナタ第6番」のフィナーレに近い、トッカータ風の音楽である。「第12番」「第17番(テンペスト)」のフィナーレにもみられる音の奔流は明らかにこの曲でもはっきりした形となって表れているというべきで、楽想はバッハ、あるいはスカルラッティとの関連があるとヨーアヒム・カイザーは鋭く指摘している。

ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 作品57  (1804-05年作曲)

作曲された時期は「フィデリオ」と「エロイカ」の作曲と同じ時期で、戦争による社会の混乱、耳病の一層の悪化などの中で、彼は自己の境地をさらに切り開いていった。「熱情」という通称は、1838年にハンブルクの出版商クランツが、ピアノ連弾用の編曲版の出版に際して付けたものだそうだ。

第1楽章 アレグロ・アッサイ へ短調、12/8拍子、ソナタ形式。 心の不安を表わすかのような分散和音の主題で始まる。第2主題もその主題のリズムを用いたもので、楽章を通じてこの主題が陰に陽に現れている。また、有名な「運命の動機」が随所に用いられていることも特徴で、コーダは、後の展開を予感させるかのように、暗示的にppで終わる。
★ 演奏上の問題点: コーダのPiù allegro とその前の adagio との関係。元の速さに戻すのなら「a tempo」または「Tempo I」と書く方法もある。そこでPiù allegro が登場する曲を調べてみると、ピアノソナタ第15番ニ長調 Op.28の第4楽章、第22番 ヘ長調 Op.54の第2楽章、あるいは交響曲第5番第4楽章(第353小節で Sempre più allegro più stretto、第362小節で Presto)などがある。この楽章ではコーダでテンポを上げる意味が含まれているものと解釈したい。

第2楽章 アンダンテ・コン・モート 変ニ長調、2/4拍子、変奏曲形式。コラール風で穏やかな主題につづいて、古典的な手法により三つの美しい変奏が行なわれる楽章。完全終止とならずに次の楽章に続けられる。
第3楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ。2/4拍子、ソナタ形式。ほとんど休むことのない運動がクライマックスまで続けられる独特の音楽である。この曲のイメージはピアノ・ソナタ第12番および第22番のフィナーレにもあったが、感情の高まりをこのように見事に音化した作品は唯一無二のものであろう。

作品57は循環主題(C-Des-C)で全曲を構成すること、提示部での第3主題を登場させること(「月光」ソナタ以後)、第2楽章の変奏曲形式(ピアノソナタ第10番、ヴァイオリンソナタ第1番、第5番「春」、第9番「クロイツェル」、ピアノ三重奏曲第3番など)、第3楽章への連続性、楽章ごとにテンポを上げていく手法、などから、ベートーヴェンの個性を最高度に発揮した音楽と言える。


参照楽譜(出版社と編集[校訂]者)

Bärenreiter (Jonathan Der Mar)
Henle (Gertsch, Perahia/ Op.7, 31, 101)
Henle (Schmidt-Görg/ Op.2〜57))
Henle (Wallner)
Peters (Martienssen)
Universal (Schenker)
——
Durand (Dukas)
Peters (Arrau)
Peters (J.Fischer/ Op.13, 27, 57, 106)
Ricordi (Casella)
Simon & Schuster (Schnabel)
Schirmer (Bülow, Lebert)

参考文献:

児島新 『ベートーヴェン研究』 春秋社、1985
属啓成 『ベートーヴェンの作品(上)』 三省堂、昭和19年
平野昭・土田英三郎・西原稔 編著 『ベートーヴェン事典』東京書籍、1999
平野昭 『作曲家◎人と作品シリーズ ベートーヴェン』音楽之友社、2012

Drake, Kenneth; The Sonatas of Beethoven as He Played and Taught Them. MusicTeachers National Association, Cincinati,1972
Newmann, Willam S.  Beethoven on Beethoven: playing his piano music his way. W.W.Norton & Company, New York, 1988
Newmann, Willam S.  Performance practices of Beethoven's Piano Sonatas. New York, 1971
Thayer, Alexander Wheelrock. Thayer's Life of Beethoven, revised and edited by Eliot Forbes. Princeton University Press, New Jersey,1964
(邦訳:『セイヤー ベートーヴェンの生涯[上][下] エリオット・フォーブス 校訂  大築邦雄訳』、音楽之友社、昭和46/49年)
Rosen, Charles  Beethoven’s Piano Sonatas: A Short Companion. Yale University Press, 2002
(邦訳:『ベートーヴェンを“読む”——32のピアノソナタ 小野寺粛訳、土田京子・内藤晃監修』、道出版、2011
Rosen, Charles  Piano Notes: The World of the Pianist. Simon & Schuster, Inc., New York, 2002
(邦訳:『ピアノ・ノート  演奏家と聴き手のために  朝倉和子訳』、みすず書房、2009)
Rosenblum, Sandra P. Performance Practices in Classic Piano Music. Indiana University Press, Bloomington and Indianapolis, 1988

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