Beethoven 1809年〜1822年のピアノソナタ     2022.7.10更新

演奏して気が付いた点をメモしてあります。「演奏上の問題点」については演奏をしながら少しずつ書き足していく予定です。

ピアノ・ソナタ第24番 作品78  (1809年作曲)

このソナタは第1楽章における抒情性が大きな特徴である。ただし第2楽章はスケルツォ的性格であり、ソナタとしての楽章構成はよく考えられていると言うべきであろう。第22番以来の二楽章制であるが、第22番とは異なり、たいへん親しみやすい音楽である。

第1楽章 アダージョ・カンタービレ 嬰へ長調 2/4拍子/アレグロ・マ・ノン・トロッポ 嬰へ長調 4/4拍子、ソナタ形式。「第22番」「第23番」では見られなかった提示部の反復が復活し、展開部・再現部も繰り返される。これは、ソナタとしては古典派初期のスタイルである。
★ 演奏上の問題点: 第16小節、4拍目の左手はFis-Aisで弾いていたが「Dis-Fis」がオリジナルであり、再現部第75小節とはsfの位置が違うことに注目したい。ただ、再現部の音程に直した方の音に慣れてしまっているということはある。
第2楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ 嬰へ長調、2/4拍子、自由なロンド形式。スケルツォの要素をもった楽しい楽章。冒頭の和音がドッペル・ドミナント(下方変位)で開始するのが特徴である。楽章の大半を占める右手の16分音符は2つずつ音符が組み合わされたもので、陽気な気分を高めている。

ピアノ・ソナタ第25番 ト長調 作品79  (1809年作曲)

「ソナチネ」として出版されたソナタである。大作を次々と発表していったベートーヴェンだが、作風が平易になった感がある。しかし、よく見ると第1楽章の展開部やコーダがかなり長く作られていたり、古典的でありながらかなり自由度が増していたりすることがわかる。さらにバドゥラ=スコダが指摘する「和声の隠された先取り(第1楽章第5小節)」やブラームス風の「ポリ・リズム(第1楽章・再現部直前、第119小節)」など、決して「ソナチネ」とは言っても若い人向けとは言えない、後期様式の特徴も現れていることは注目してよいだろう。

第1楽章 プレスト・アラ・テデスカ ト長調、3/4拍子、ソナタ形式。「アラ・テデスカ」とは「ドイツ風」の意味。明るく楽しい第1主題が印象的である。第2主題はニ長調に転じるものの主題らしい形はしていない。この曲の特徴は展開部にたびたび登場する3度下降の動機である。これは第1主題から派生したもので、このソナタが「かっこう」と呼ばれる理由である。
第2楽章 アンダンテ ト短調、9/8拍子、三部形式。のちの「無言歌」を思わせる抒情的な楽章。主題はいつも3度・6度の重音で奏され、イタリア風の二重唱カンツォーネと言ってもよいだろう。
第3楽章 ヴィヴァーチェ ト長調、2/4拍子、ロンド形式。古典的な形式感からするとある部分は長く、ある部分は短い、また最後のA主題は断片しかない、などアンバランスとも言えるが、そこにこの曲の天衣無縫の面白さがあるとも言えよう。

ピアノ・ソナタ第26番 変ホ長調 作品81a 「告別」  (1809-1810年)作曲

1809年から10年にかけて,フランス(ナポレオン)軍はウィーンに進駐していた。その時にベートーヴェンの保護者たちはウィーンを離れ、親友のルードルフ大公も例外ではなかった。この作品は、その時の心境を表現した「標題音楽」である。ほぼ同じ時期にピアノ協奏曲第5番<皇帝>が作曲されていることも記憶しておきたい。

第1楽章 <告別> アダージョ 変ホ長調 2/4拍子 — アレグロ 2/2拍子 変ホ長調 ソナタ形式。「告別。1809年5月4日、尊敬するルードルフ大公殿下の御出発にあたって」と記された楽章である。冒頭に現れる動機には「Le-be-wohl(さようなら)」という歌詞が付けられており、この動機に基づいて楽章全体が構成される。
第2楽章 <不在> アンダンテ・エスプレシーヴォ ハ短調 2/4拍子。二部形式。親しかった人に会えない悲しさ・不安が減七の不協和音で表されている。第2主題は長調に転じて再会への憧れを歌うが、その旋律は短い。終止はなく、次の楽章に続けて演奏される。
第3楽章 <再会> ヴィヴァーチッシマメンテ 変ホ長調 6/8拍子,ソナタ形式。突然の和音に続いて、喜びに満ちた主題となる。再会の喜びが楽章全体に満ち、このソナタを輝かしく締めくくる。この楽章では、再現部第1主題がドミナント(5度の和音)で導かれないのだが、ベートーヴェンにしては意外に思われるこの手法は、ヴァイオリン・ソナタ第5番(「春」)、チェロ・ソナタ第3番などにも見られる。のちの「ピアノ・ソナタ第29番(ハンマークラヴィーア)」での音の問題にも関連してくるものである。

ピアノ・ソナタ第27番 ホ短調 作品90  (1814年作曲)

作曲されたのは1814年、「ヴァルトシュタイン」や「熱情」ソナタを作り上げた後の時代、いわゆる「後期への過渡期」に作られたソナタである。
この曲は二楽章構成でありながら実に見事なまとまりを持っており、これはベートーヴェンが若いころから抱き続けてきたテーマの一つと言われている。ベートーヴェンは対立したテーマをしばしば二部形式、二楽章形式で表すことを好んだ。このソナタが二つの楽章のみであることについてベートーヴェンは、作品を献呈したリヒノフスキー伯爵に、第1楽章は「理性と感情の闘い」、第2楽章は「愛人との対話」であると説明したとのことである。
この曲とシューベルトの音楽との接近性についてであるが、シューベルトの「ピアノ・ソナタ ホ短調 D566」の第2楽章は、このソナタの第2楽章と非常によく似ていて面白い。ちなみにシューベルトの曲は1817年作曲である。

第1楽章 生き生きと、そして終始感情と表現をもって。ホ短調、3/4 拍子、ソナタ形式。
★ 演奏上の問題点:第164小節の左手は、ベーレンライター版を見ると提示部とは異なりGis-H-Eの付点2分音符である。自筆譜ファクシミリを見るとなるほどと考えさせられる。
第2楽章 速すぎないように、そしてよく歌って演奏すること。ホ長調、2/4拍子、ロンド・ソナタ形式。
★ 演奏上の問題点:第13小節1拍目のバスの音は、かつて国内版で学習した時はGisで演奏していたが、その後ヘンレ版を見て(そして大多数のピアニストの演奏を聴いて)Aに直して弾いていた。ところが最新のベーレンライター版ではGisになっている。Critical Commentaryを読むと自筆譜のインクの汚れ及び作曲者の訂正について書いてあるのだが、どうもよく分からない。ウニフェルザール版ではヴァリアントの意味について書いてある。今までの経緯からは後者の考えを取りたいとは思うが、今後ももう少し調べてみたいところだ。

ピアノ・ソナタ第28番 イ長調 作品101  (1816年作曲)
作曲は1816年。1815年に書かれたチェロ・ソナタ作品102 の2曲と共に、後期様式の開始を告げる作品として大変重要な位置を占めるソナタである。
このソナタはイ長調であるが、曲の開始は何と不思議な調性感覚であることか。ベートーヴェンは即興演奏の大家であったというが、まるで晩年のベートーヴェンが自由な即興で楽想を探っているかのようである。チャールズ・ローゼンの言葉だと「まるで“楽句の途中”にいるような感じで始まる」。作曲家の内的な独白というように感じられるが、それは第3楽章の深い瞑想にもつながる。
このソナタが献呈されたドロテーア・フォン・エルトマン男爵夫人は当時のウィーンにおける女流第一のピアニストであり、ベートーヴェンの愛弟子でもあった。とくにベートーヴェンの音楽の神秘的なニュアンスを感じ取る能力にかけては彼女に勝るピアニストはいなかったそうである。このソナタ全体にみられる暖かさ、明るさ、ユーモアの感覚などは、ベートーヴェンの彼女への大きな愛情を反映したものと考える人もおり、第24番「テレーゼ」ソナタとも共通性が出てくるが、ベートーヴェンのやさしさ、人間味を感じさせる意味でもたいへん魅力のあるソナタと言うことができる。

第1楽章 いくらか活気をもって、そして最も奥深い感情をもって
第2楽章 活気をもって、行進曲風に
第3楽章 ゆるやかに、憧れにみちて
★ 演奏上の問題点: 第24-26小節右手のタイがあるのかないのかという問題についてはなかなか結論は出そうにない。自筆譜を見ると確かにタイは書かれているがその向きが上声部ではなく右手下声部のように見える。しかしその位置がかなり高いのでソプラノにつけられたとも見える。25-6小節には明らかにタイはないので、この場合、第1楽章第4小節と同じ動機と考えるのが普通の考え方と思われる。現代のピアニストでも第1楽章第4小節のE音をタイにして演奏する人はいる。なお、この部分に記された「tutto il Cembalo ma piano」の「チェンバロ」については小林義武『バッハ 伝承の謎を追う(春秋社)』P.81を読むと理解できるだろう。このような音楽史的学習は大事であり、この語を「チェンバロのように即ち 3本線で」と訳すことは要注意かと思う。
第4楽章 第1楽章の速さで ~ 速く、しかしはなはだしくなく、そして決然と

ピアノ・ソナタ第29番 変ロ長調 作品106  (1817-18年作曲)

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ中で最大の規模を持つ作品である。題名の「ハンマークラヴィーア」という名称は、初版譜に「GROSSE SONATE für das Hammer-Klavier」と表記されていたためで、「第28番」にも同様の表記があるので、この作品だけに付けられるのは適切とは言えないのだが、なぜかこの作品のみに与えられた名称となっている。
この作品は、それまでのピアノ・ソナタとは違った個性をいくつも持つ。その中でもっとも特徴的なのは「3度体系」による新しい調性感覚と言えるだろう。第1楽章は「変ロ長調(第1主題)〜ト長調(第2主題)〜変ホ長調(展開部での対位法的展開)、ロ短調(再現部で一時的に現れる第1主題)というように、3度間隔で調を下降してゆく。これは全く新しい感覚なのだ。そして「変ロ長調」と「ロ短調」という調の対比はこのソナタ全体を貫く「一定の調のもつ象徴性の追求」である、とブレンデルは鋭く指摘した。

第1楽章 アレグロ 変ロ長調、2/2 拍子、ソナタ形式。堂々とした和音の響きを持つ第1主題、柔らかな流れをもつ第2主題、二つの対比が見事である。展開部では第1主題を用いた対位法的展開もみられ、音楽が豊かに広がってゆく。
★ 演奏上の問題点:
1. この曲で最大の問題は第1楽章の二分音符=138というテンポだと思う。ここではいくつかの事実および考え方を示すにとどめたい。
・ ロンドン初版では4分音符=138となっているとのこと(J.Fischer版の注釈)
・ C.ローゼンは「実際にはモーツァルトの一般的な一般的な Allegro と完全に一致する」と言っている。(邦訳『ベートーヴェンを“読む”』)
・ エトヴィン・フィッシャーは『ベートーヴェンのピアノソナタ』においてこの楽章およびアダージョのテンポについて「間違いだろうと思われる」と言っている。「この曲をこのようなテンポで弾きながしたりすると、これはもうピアノの上でさえ美しさを失ってしまう。」
・ 大崎滋生『音楽演奏の社会史』によると Doppelpendel-Theorie という新理論が現れた時期があったが「新理論は5年も持たずに克服された」とある。思い込みの仮説によって恣意的に歴史資料を読んでいくということについて、考えさせられる内容である。
・ ベートーヴェンのメトロノーム記号についてはさまざまな問題がある。例えば交響曲第9番。金子建志『こだわり派のための名曲徹底分析 ベートーヴェンの<第9>』に詳しい。
・ バドゥラ=スコダが言う「《ハンマークラヴィール・ソナタ》はわれわれピアニストにとっては、指揮者にとっての《第九》に等しい」という言葉から考えると、この第1楽章はあまりにも急速でせかせかしたテンポで、和声の味わいもない演奏をするべきではないと個人的には考えたい。
2.第210-212小節: 右手のGがGisになっているのはロンドン初版ということで、ヘンレ版、ウニフェルザール版、ベーレンライター版ではGis音。私はJ.Fischer校訂 Peters版の「209-210, 211-212小節は207−208小節の変奏」という考え方に基づいてG音で演奏したい。
3. 第235-237小節: m235、右手3拍目にあるGesはGisに直してあるのがベーレンライター版など。音楽的には納得できる。m237、右手2拍目裏のAをAsの誤りとするのがヘンレ版など。後者はほとんど問題ないと思うが前者はまだよくわからない。
4.第224-226小節: A なのか Aisなのか議論される箇所。ベーレンライターの注釈(デル・マール)によれば「local tonality」から考えることが必要とある。これは非常に有効な考え方だと思われる。
第2楽章 スケルツォ: アッサイ・ヴィヴァーチェ〜プレスト 変ロ長調 3/4拍子、三部形式。主題は7小節の不規則構造をもつもので、付点音符のアウフタクトも不安定感を強調すると言えるだろう。落ち着きがなく、先を急ぐような性格が強い。中間部はそれに対し、幅広い左手のアルペジオの上に短調のメロディーが現れ、カノンで受け継がれる。コーダでは変ロ音からプレストでのロ音に移る悪魔的な交替が印象的だ。
★ 演奏上の問題点
1. 第112小節: 最後にある8va記号を左手にも表記するエディションもあるしそのように演奏する人もいるが、ピアノ協奏曲第3番(第1楽章、m113など)やピアノソナタ Op.111(第1楽章提示部最後)などで 2オクターヴ離れた音形をベートーヴェンが書いていることも考えた上で判断したい。
2.  同: 低音部からの速いパッセージを多くのエディションは小さな音符で表記しているが、そうでない楽譜もある。ただ、3連符と8分音符の違いについてはカデンツァ風の記譜と考えるのが妥当であり、速さに差をつける演奏は聴いたことがない。
3. 第2楽章にAdagio sostenuto を置いているエディションは J.Fischer版。ロンドン初版を考慮したとある。「ロンドン版における楽章の並び順は、音楽的な動機によって実現されたものでもある」という考え方。
第3楽章 アダージョ・ソステヌート 嬰へ短調 6/8拍子、ソナタ形式。ベートーヴェン作品中でもっとも瞑想的で悲劇的内容を持つ緩徐楽章。第1主題は祈りにも似たもので、途中でト長調への転調を含む長大なものである。第2主題はニ長調で、低音部にゆったりと歌われるもの。再現部では主題が美しく変奏される。この楽章は、もはや聞き手に何かを聴かせようとする音楽ではない。作曲者自身の神との対話とも思える、この世のあらゆるものを超越した音楽と言うべきではないだろうか。
第4楽章 ラルゴ 4/4拍子〜アレグロ・リソルート 変ロ長調、3/4拍子。序奏部を持つ「いくぶん自由なフーガ」。まず、ラルゴの序奏では自由で幻想的な楽想が断片的に示され、それが転調を重ねながら変ロ長調のドミナントに落ち着くと、アレグロのフーガとなる。このフーガは、形式的な美しさよりは力強い音の奔流を示す、という意味で「“熱情”ソナタ」のフィナーレ主題の性格を感じる人もいることであろう。この曲は、作品133の弦楽四重奏曲のために構想された「大フーガ」としばしば比較される大規模なものであり、以下の8つの部分から構成される(この分け方については属啓成『ベートーヴェンの作品 上巻(三省堂)』による)。
第1部: 主題提示。力強く変ロ長調の主和音が奏されたのちフーガ主題となる。この主題は、導入の下降音形が終わらないうちに登場するので、やや分かりにくいが、10度の跳躍でトリルに到達し、下降、上昇と目まぐるしく動くものである。この冒頭の主題は、「スコットランドのバグパイプ楽団によって様々な曲の導入部で奏されるドラムのロールから着想」されたものという説がある(J.Fischer)。当時ベートーヴェンはスコットランド民謡を編曲する仕事をしていたのでこの説は実に興味深い。
第2部: 4分音符1個分先行するフーガ。ここで変ニ長調に転調する。
第3部: 変ト長調の推移を経て拡大フーガが登場。変ホ短調へと転調し、スフォルツァンドによる強調、連続トリルなどで自由に展開される。
第4部: 逆行フーガ(主題の音列を後ろから前へと逆に並べたもの)。この曲の大きな特徴が、第1楽章以来重要な意味を持つロ短調で登場する。
第5部: 主題の基本形をニ長調で低声部に一度示した後に、ト長調で転回フーガ(音程関係を逆にする)が登場。このあと主題前半のトリルを執拗に繰り返し、ニ短調のドミナントで終止となる。
第6部: 新主題によるフーガ。4分音符の流れによる静かなフーガ。ニ長調。
第7部: 二重フーガ。変ロ長調にもどり、第1部の主題と新主題を組み合わせて演奏。
第8部: 鏡像フーガ(主題と転回主題を組み合わせたもの)、その後コーダ。

ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 作品109  (1820年作曲)

1820年に作曲されたソナタであり、マキシミリアーネ・ブレンターノに献呈された。マキシミリアーネはアントーニエ・ブレンターノの娘で、当時18歳であった。この作品109 からの三曲の後期ソナタは、同時に構想されたものと思われる。また、アントーニエ・ブレンターノ(この女性が「不滅の恋人」ではないかと言われている人物)に関係があることはしばしば論じられるところであって、以前のような古典主義的な構成感から離れてきていることと関係づけて考えることは許されるであろう。

第1楽章 ヴィヴァーチェ・マ・ノン・トロッポ (2/4 拍子)——アダージョ・エスプレシーヴォ(3/4 拍子)、ホ長調 、ソナタ形式。終止線はなく複縦線で区切られていることから、次のプレスティシモの部分と一緒になって第1楽章が構成されるとする意見があり、そうするとこのソナタ全体は二楽章構成ということになる。それにしても、アラベスク風のヴィヴァーチェ部分と幻想的なアダージョの対比は、ソナタの概念を超えた世界という印象もある。各楽想は中期作品のような確立性を持たず、穏やかな情緒の中に美しく流れてゆく。
第2楽章 プレスティッシモ ホ短調 6/8 拍子、三部形式。 ソナタ形式とも考えられる。スケルツォ風の楽章である。
第3楽章 歌に満ちて、心からの感情をもって(ドイツ語の発想標語。イタリア語でアンダンテ・モールト・カンタービレ・エド・エスプレシーヴォと併記)ホ長調、3/4 拍子、変奏曲形式。 主題はサラバンド風な音楽で、敬虔な気分を感じさせる。第1変奏 モールト・エスプレッシーヴォ(非常に表情豊かに)/第2変奏 レジェールメンテ(軽快に)/第3変奏 アレグロ・ヴィヴァーチェ/第4変奏 主題よりいくぶん遅めに(ドイツ語表示)/第5変奏 アレグロ・マ・ノン・トロッポ。フーガ風に始まるが、すぐに自由な展開となる。第6変奏 テンポ・プリモ・デル・テーマ。主題提示のあと、音符が細分され、長いH音のトリルと変貌してゆく。最後に最初のテーマが再び奏されて曲を閉じる。
★ 演奏上の問題: 主題第6小節にある装飾音符。普通は中間打音のように演奏されるが、3拍目に合わせて演奏する人もいる(バックハウス、ブレンデルなど)。ノッテボーム「ベートーヴェニアーナ」を読むと理解できる奏法だ。

ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 作品110  (1821年-22年作曲)

「告別」ソナタ(1809-10) の頃よりベートーヴェンの作風は次第に自己の内面を表現する方向に変化していった。「第30番」にも感じられることであるが、この「第31番」では、そのような彼の個人的な世界が、独自の形式によって表現されたものである。第1楽章にはモーツァルト的な美の世界が広がり(シューベルトの旋律を思わせる瞬間もある)、第2楽章は素朴な民謡風旋律と技巧的なパッセージの対比が素晴らしい。第3楽章には受難曲の世界と感動的なフーガ。これは全く独創的なソナタだ。
このソナタでは、楽章それぞれが互いに関連し合っているのが特徴で、楽章終了の音が次の楽章を導き出していることも重要である。ベートーヴェンが目指した「音のドラマ」がここに完結したと言っても良いだろう。

第1楽章 モデラート・カンタービレ・モルト・エスプレシーヴォ 変イ長調 3/4拍子 自由なソナタ形式。
第2楽章 アレグロ・モルト ヘ短調 2/4拍子 三部形式。スケルツォ風楽章。トリオは変ニ長調に転じ、幅広い音域を8分音符の華麗な動きが支配する。
第3楽章 アダージョ・ノン・トロッポ——フーガ:アレグロ・マ・ノン・トロッポ。序奏、レチタティーヴォ(変ロ短調)に続いて「嘆きの歌」と記された感動的な変イ短調のアリオーソが現れ、続いて変イ長調のフーガとなる。クライマックスに達するとふたたび「嘆きの歌」がト短調で復活、和音の連続であたかも大きな力を与えられたかのような楽節を経たのち、フーガの転回形、さらに縮小形、拡大形となり、きわめて効果的な発展を遂げ終結するのである。
★ 演奏上の問題点:
1.第5小節、小節の中央で調号が#4つに変化するように書かれたエディション(古いヘンレ版など)もあるが、これは自筆譜で新しいページに変わる際に調号が書かれたことに関係しているらしい。(ベーレンライター版注釈参照。自筆譜にA1、A2という2種類があることについて書かれている)。
2. 第5小節、左手の2番目の和音の位置が楽譜によって違っている。


ピアノ・ソナタ第32番ハ短調 作品111  (1821-22年作曲)

ベートーヴェンは最後のピアノ・ソナタで二楽章制を用いた。しかし、この方法はかつての「第24番(テレーゼ)」や「第27番」とは一線を画したもので、ある意味で「ソナタの最終回答」とも評される、深遠な内容を有するものとなった。第2楽章が変奏曲であることは、「第30番」と同様である。しかし、この作品は第1楽章の充実した存在感に特徴がある。バロック的な序奏、フーガを思わせる第1主題と、心の安らぎを表現するかのようなロマン的な第2主題、そしていたる所に書き込まれた詳細なアゴーギクの指示。そして第2楽章の変奏曲主題に聴かれる神々しいまでの美しさ。
このソナタは、バロック時代、古典派時代の要素を受け継ぎながら、来たる新しい時代の音楽を彷彿とさせるような巨大な精神を示している。古典派ソナタの最高峰とも言えるだろう。

第1楽章 マエストーソ —— アレグロ・コン・ブリオ・エド・アパッショナート ハ短調 4/4拍子 ソナタ形式。
序奏の後、強い意志の力を感じさせる第一主題、テンポを落として変イ長調で現れる第二主題、古典的な作風の中にも自由な息吹を感じさせる音楽である。
★ 演奏上の問題:
1.第6小節、ベーレンライター版をみると最後の和音でバス音がAsになっている。
第2楽章 アダージョ・モルト・センプリーチェ・エ・カンタービレ ハ長調 9/16拍子 変奏曲形式。
「アリエッタ(小さなアリア)」と記された主題と、五つの変奏。但し変奏番号は付けられていない。第一変奏から第三変奏では主題が少しずつ細分化され、精神が高揚してゆく。第四〜第五変奏はベートーヴェンの即興演奏を思わせ、独り静かに瞑想に耽るかのようだ。最後に、右手の長いトリルによる美しいコーダでこの曲は幕を閉じる。
★ 演奏上の問題:第32小節 L'istesso tempoについてはベーレンライター版のJonathan Del Marによる考え方で問題ないと言える。

参照楽譜(出版社と編集[校訂]者)

Bärenreiter (Jonathan Der Mar)
Henle (Gertsch, Perahia/ Op.7, 31, 101)
Henle (Schmidt-Görg/ Op.2〜57))
Henle (Wallner)
Peters (Martienssen)
Universal (Schenker)
——
Durand (Dukas)
Peters (Arrau)
Peters (J.Fischer/ Op.13, 27, 57, 106)
Ricordi (Casella)
Simon & Schuster (Schnabel)
Schirmer (Bülow, Lebert)

参考文献:

児島新 『ベートーヴェン研究』 春秋社、1985
属啓成 『ベートーヴェンの作品(上)』 三省堂、昭和19年
田村和紀夫『アナリーゼで解き明かす 名曲が語る音楽史〜グレゴリオ聖歌からボブ・ディランまで〜』音楽之友社、2000
バドゥーラ=スコダ,パウル『ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 演奏法と解釈 高辻知義・岡村梨影表 共訳』音楽之友社、昭和45年
平野昭・土田英三郎・西原稔 編著 『ベートーヴェン事典』東京書籍、1999
平野昭 『作曲家◎人と作品シリーズ ベートーヴェン』音楽之友社、2012

Drake, Kenneth; The Sonatas of Beethoven as He Played and Taught Them. MusicTeachers National Association, Cincinati,1972
Fischer, Edwin; Ludwig van Beethovens Klaviersonaten, Ein Begleiter für Studierende und Liebhaber. Insel Verlagm Wiebaden, 1956
(邦訳:『ベートーヴェンのピアノソナタ 佐野利勝・木村敏訳』、みすず書房、1956
Newmann, Willam S.  Beethoven on Beethoven: playing his piano music his way. W.W.Norton & Company, New York, 1988
Newmann, Willam S.  Performance practices of Beethoven's Piano Sonatas. New York, 1971
Thayer, Alexander Wheelrock. Thayer's Life of Beethoven, revised and edited by Eliot Forbes. Princeton University Press, New Jersey,1964
(邦訳:『セイヤー ベートーヴェンの生涯[上][下] エリオット・フォーブス 校訂  大築邦雄訳』、音楽之友社、昭和46/49年)
Rosen, Charles  Beethoven’s Piano Sonatas: A Short Companion. Yale University Press, 2002
(邦訳:『ベートーヴェンを“読む”——32のピアノソナタ 小野寺粛訳、土田京子・内藤晃監修』、道出版、2011
Rosen, Charles  Piano Notes: The World of the Pianist. Simon & Schuster, Inc., New York, 2002
(邦訳:『ピアノ・ノート  演奏家と聴き手のために  朝倉和子訳』、みすず書房、2009)
Rosenblum, Sandra P. Performance Practices in Classic Piano Music. Indiana University Press, Bloomington and Indianapolis, 1988



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